キャス・エリオット Cass Elliot
噂は時に独り歩きする。独り歩きして拡散するうちに、いつのまにかそれが事実であるかのように受け取られ、定着してしまうこともある。意外性があって、一見ありえないと思われるものほどそうなりやすい。
ママ・キャス・エリオットの死をめぐっての噂がまさにそうだった。海外からの情報は玉石混淆、混濁した状態でやってくることがしばしばだが、このときも奇妙なものが1つ混じっていた。ママ・キャスは食事中にサンドイッチを喉につまらせて窒息死した、というのである。
不謹慎ながら、われわれは笑った。笑いながら想像をめぐらし、あの太っちょのママ・キャスならあり得るなと結論づけた。単なる憶測でしかなかった噂は、このときから独り歩きを始めた。
ママ・キャスの存在は、でっぷり肥った体型と切っても切れない関係にある。彼女がわれわれに認知されることとなったのは、1965年、ママス&パパスの一員としてデビューし、その翌年、「夢のカリフォルニア」が大ヒットしてからのことだが、地味なサイド・ヴォーカルであるにもかかわらず、あの身体ゆえに目立った。写真を見て印象づけられた記憶のあるファンが多くいるはずだ。
しかし、肥ってはいても、ステージでのパフォーマンスには何の問題もなかった。そのことは、多数残されている当時のテレビ・ショーなどの映像を見ればわかる。動きは図抜けて軽く、「夢のカリフォルニア」を歌うときも、他のメンバー以上に小刻みに軽やかにステップを切るのが彼女だった。
動作だけではない。ママス&パパスはメンバーそれぞれが高い歌唱力の持ち主だったが、図抜けていたのはやはりママ・キャスだった。カリフォルニアではジャズ・シンガーをつとめていたこともあり、残されている録音を聴けばわかるが、スロー・バラードの類が実にうまい。リズム感はいいし、ジャズの世界でも充分成功し得たのではないか。ただ、時代の風はロックだった。
ママス&パパスは編成からいえばポップ・コーラスだが、それなりに時代の風に乗ったグループだった。何よりも、彼らの一番のヒット曲「夢のカリフォルニア」がそのことを物語っている。冬のニューヨークの風景を描いたあと、
もしロサンジェルスにいたら
ぬくぬくと幸せだっただろうに
こんな冬の日にはね
カリフォルニアを夢見るのさ
と歌われるこの歌は、ごく単純な温暖な土地への憧れの歌だが、ほどなくアメリカではカリフォルニア=ウェストコーストの文化が沸騰する。「夢のカリフォルニア」は、そういう時代の流れを先頭切って示した標識でもあった。
事実、グループのリーダー、ジョン・フィリップスが深く関わった1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバル以後、ポップ・ミュージックの中心はウェスト・コーストに移る。ウェストを拠点に活動するママス&パパスもその中でヒット曲を連発し、存在感を高めていくのだが、しかし落とし穴があった。グループ内の人間関係のもつれで1968年、グループはあっけなく解散する。
一方、解散を通じてソロ歌手として独立したママ・キャスは、ジャニス・ジョプリンを熱烈に支持し、新しいロックの胎動を評価しながらも、それとは全く別の道に進んだ。70年代に入ってから作られたレコードの数々が示すように、彼女が選んだのはオーソドックスなポピュラー・ソングの分野であり、その活動は、テレビのトーク・ショーやバラエティー番組にも広がっていった。人気は年々高まり、解散後存在感を薄めた他のメンバーとは対照的に着実に成功を自分のものとした。その人気はアメリカ国内にとどまらず、特に英国で多くの人の心をつかんだ。
しかし、ここにも落とし穴があった。
ママ・キャスは、1974年、ロンドンで突然に死んだ。ホールを超満員にした二度目のソロ公演のあとだった。死因は心臓発作だが、それがわかったのは死からしばらく時を経てのことだった。かたわらには食べかけのサンドイッチが残されていて、これが「サンドイッチによる死」という噂の火元になった。
ロンドンで仕事する機会が多くなっていたママ・キャスは、市内に生活の拠点を設けていた。メイフェア・カーズン街9の12号フラットがそれで、ここが死の床となった。
この部屋では、その4年後にザ・フーのドラマー、キース・ムーンが他界している。呪われた部屋というべきか。
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